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雨上がりの午後、僕は家の近所にある小さなカフェで、いつものように本を読んでいた。カウンター席に座り、頼んだホットコーヒーの湯気が、薄暗い店内の照明に溶け込むように漂っている。外では、さっきまで降っていた雨が上がり、アスファルトの道路が濡れた鏡のように輝いていた。
そのときだった。ドアが開き、ベルが軽く鳴る音とともに、彼女が入ってきた。肩に掛けたベージュのコートからは雨の匂いがし、少し乱れた髪の毛を手で直しながら、店内を見渡している。僕は視線を本に戻そうとしたが、なぜかできなかった。彼女の動きは、映画のワンシーンのように鮮やかで、その瞬間、僕の時間が少しだけ止まったように感じた。
彼女はカウンター席の僕の隣に座った。空いているテーブル席がいくつもあるのに、わざわざ隣を選んだことが不思議だった。彼女はメニューをざっと見てから、カフェラテを注文した。少し鼻にかかった声が耳に心地よく響いた。
「すみません」と彼女が突然声を掛けてきた。僕は少し驚いて顔を上げた。
「えっと、その本、面白いですか?」
彼女が指差したのは、僕が読んでいた村上春樹の小説だった。僕は少し戸惑いながらも、「ええ、まあ、面白いと思います」と答えた。
「どんな話なんですか?」
彼女の質問に、僕は本の内容を簡単に説明した。音楽、孤独、そして微妙な恋愛の話だと。彼女は頷きながら興味深そうに聞いてくれた。
「いいですね、今度読んでみます」と言いながら、彼女は自分のカフェラテを一口飲んだ。そして、何か思い出したように微笑んだ。「そういえば、雨が上がると、なんだか新しいことが始まりそうな気がしますね」
その言葉に僕は少し考え込んだ。雨が上がると新しいことが始まる——そんな感覚は今までなかったが、彼女の言葉には妙な説得力があった。
「そうかもしれませんね」と僕は答えた。
それから僕たちは、取り留めもない話を続けた。好きな音楽、行きたい場所、雨の日の過ごし方。話しているうちに、彼女の名前が「美咲」であることを知った。彼女の話し方や仕草にはどこか懐かしさがあり、一緒にいると時間がゆっくり流れているように感じられた。
美咲がカフェを出るとき、僕は何かを言おうと思ったが、結局言葉は出てこなかった。代わりに、彼女が去った後も、その残り香のような余韻がカフェに漂っていた。
それから数日間、僕は毎日そのカフェに通った。美咲がまた来るかもしれないと思ったからだ。でも彼女が再び現れることはなかった。彼女との会話は、雨上がりの虹のように、一瞬で消えてしまった。
それでも、僕の心には彼女の言葉が残っている。雨が上がると新しいことが始まる——もしかしたら、それは彼女が僕に残したささやかな魔法だったのかもしれない。